戦争錦絵としては、昔より有名な合戦、例えば川中島の戦い、関ヶ原の戦いなどが武者絵の一環として散見する程度であり、また戊辰戦争の錦絵も余り多くは見られなかったが、明治10年の維新最大の功労者であった薩摩の西郷隆盛の起こした我が国最大の内乱、西南戦争では様相が一変した。 

 戊辰戦争では同郷の血盟の同志として西郷隆盛と大久保利通とは行動を共にしたが、維新後は政治思想の違いから時代に離れて行き、お互いの取り巻く人々によって振幅が大きくなり、明治6年に起きた韓国を討つべしとする征韓論を巡って決定的な対立となり、征韓論を主張する西郷は論争に破れて政府を去り鹿児島に戻った。 

 西郷は私費で学校を創り、将来国家有事の場合、有為の人物の育成に当っていたが、明治10年2月、政府の方針に反対する血気にはやる私学校の生徒たちに擁せられて、ついに打倒政府を叫んで決起、九州全域を戦場とする大規模な西南戦争にと拡大していった。
 
 我が国の今後の運命を左右する戦争だけに、全国民は固唾を呑んでその成行を見守ったが、当時新聞はあったが一般には普及されておらず情報不足でやきもきしていた。 

 そのとき錦絵の版元が速報として西南戦争錦絵を発行した。ニュースに飢えていた民衆が競って買い求め、あっという間に売り切れるというブームになった。 版元は千載一遇のチャンスと、有名、無名を問わず浮世絵師たちに発注し、絵師たちは売らんがために真偽とりまぜ、扇情的なタッチで粗製乱造に描きまくり、わが世の春を謳った。その数は正確には把握できないが、千種類くらい出たのではないかといわれているが、今となってはほとんどが姿を消した。西郷は庶民に人気があり、また日本人固有の判官びいきもあって絵師たちは西郷軍を美化して描いている。

 絵そのものは際物であるので芸術的価値は乏しく、内容も文字通りの絵空事のものが多いが、当時の庶民の要望に応えて描いたもので、その頃の庶民の西南戦争の受け止め方、あるいは風俗などを知る意味では貴重なものである。